かまぼこ職人の横顔 杉兼商店 杉山正二会長

 JR小田原駅から真っ直ぐに伸びる国道1号線。道路が箱根に向かって大きく右折する角に、杉兼商店の大きな看板が見えてくる。昭和9年の創業時につくられたという看板を拡大して再現したものだそうだが、重厚な雰囲気を醸し出している。

 小田原蒲鉾組合には、現在、13社が加盟し、それぞれに特色あるかまぼこ製品を生産しているが、同社の製造を取り仕切るのは、この道、60年の杉山正二会長だ。76歳のいまでも毎日、現場で陣頭指揮をとる。今回は、小田原かまぼこ業界の趨勢を見つめてきた杉山正二氏に話をうかがってみた。


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 杉兼商店の創業は昭和9年。法人化したのは、昭和14年。千葉出身の杉山さんが、小田原へやってきたのは昭和31年のこと。その動機は「仕事を覚えたい。自分でやってみたい。その頃は、水産関係はけっこう景気も良かったしね」。当時は、庖丁1本持った職人が自分の腕前だけで流れ歩くことができた時代だった。


 暮れの忙しい時分には、去年は、こっちにいたのに、ことしは、こっちで働いているといった光景は珍しいことではなかったという。腕さえ良ければ、それだけで生きていける時代だった。
 昔は、小田原の老舗では、板かまぼこしか作っていなかった。さつま揚げとか、竹輪などは、だものと呼ばれ、上物は、板かまという意識があったという。


 昭和30年代の小田原は、「みんな、朝、頭切りをして、水晒し……、何から何まで手作業。もちろん、かまぼこも手付け、釜も蒸篭(せいろ)で蒸して、温度計などなかったから、職人が、蒸篭のフタの開け具合から温度を見るという具合だった」。
 作業は大変だったろうが、職人にとっては面白い時代だったように思う。 「その時代のことを知っている人がいなくなっちゃった。うちには私より年上の人がいるけど、その人なんか、朝、学校に行く前に、ひと働きして、それから行ったという話だ」。


 小田原かまぼこについて「先代たちがこれだけ良いものを残してくれたから助かっている。今も、それにおんぶしているかたちじゃないの。すり身が入ってくるようになったのは、昭和37、38年頃のことだと思うが、すぐには使わなかった。蒸篭で蒸すと、スケトウの臭いが蒸気に混じって、先代などは、こんな臭いのは使えないといっていたね」。


 長崎あたりからグチが入ってくるようになって小田原でも大量生産ができるようになったという。
 小田原の中で、杉兼商店の特長は「先代の時代から、生産量もそれほど多くないので、製品を冷凍しないということ。それと、身の具合というか歯応え、形で言えば扇形で、腰が立っているというようなところかな」。


 大量生産が可能になって、年末商戦を迎える小田原の光景も変わった。 「業界が、元気の良かった時分には、築地の仲買さんが11月の最後の日曜日あたりは、現金をもって『ことしも頼むよ』と、荷物を回してもらうために顔を出していたもんだ。いまは、そうした人たちの次の次の代になってしまったが、築地の田信さんなんかと、一杯やりながら商談をしていたものだが…。その時分は、築地を通さないと他の市場に品物が行かなかった。いまやスーパーにも直でゆく時代だから。夏場には、白ちくわ。山をうんとつけて……」。懐かしい話は続く。


 昭和47年に店舗の裏に工場を建設したが、当初は、汚水処理しなくても、何層かで、ろ過したら、下水に流しても良いということになっていたのに、工場が稼動し始めたら、クレームがついて、晒しの機械を焼津にもっていって、そこで、晒しまでやってもらうようになった。


 「昔は、生の魚が主体だったが、いまはほとんどがすり身に変わった。生なんか使っていたら、いまのような値段じゃ売れないし、何千円もしたら、お客さんも買ってくれやしない。最近は、随分、安いかまぼこが出回るようになったけど、値段の割には、けっこう、うまく出来ている。食べ比べれば違いは歴然だが、消費者にとっては、かまぼこはかまぼことして同じに見ちゃうからね。『あら、かまぼこってこんなに高いのね』って言ってるお客さんが、よくいるよ」と苦笑する。


 「昔は、結婚式というば、かまぼこはつき物だった。子供の誕生日、新築祝いとか、お祝い事には、かまぼこは欠かせないものだった。それと、お土産の売上げも落ちている。今じゃ、あっという間に目的地についてしまって、土産なんか買ってる暇がないよ」。日本人の生活様式や旅のスタイルも変わってしまったということなのだろう。


 この業界に入って半世紀以上の月日が過ぎた。この間、小田原かまぼこの良い時も悪い時も見てきた。いま振り返って「いまが1番、悪いんじゃないの。この先、どうなるんだろう。ほんと心配だよ」。顔が曇った。
 右肩下がりの原因については「なんだろうなあ。それがわかれば、対処できるんだろうが、どうしようもないよ。若い人が一生懸命になってスーパーあたりに売り込んでくれているから何とかなっているけど…。いまは、千円以上のかまぼこを売り込む場所がない。お土産や、お祝い事には、少ないながらも何とか利用してくれるとは思うがお惣菜としては厳しい。ハーフ物とか、小さいサイズの方向に向かっていくんじゃないの。手間ばかりかかって、儲けが出ないよ。原材料も上がるばかり。包装資材、電気は上がる、ガスは上がる」とため息をつく。


 昔は、朝早くから、生魚を処理していた、その手間賃が製品価格に上乗せされ、利幅も多く取れたのだろう。機械化が進むのに併せて、冷凍すり身の普及で、今では、魚くさいかまぼこ屋はほとんどない。下作業は外部任せ。手間隙がかからなくなった分、儲けは少なくなったということかも知れない。「それにしても、いまは楽になったもんだよ」と笑う。 


 それでも、杉兼商店の製造は朝5時から始まる。中には、4時ごろには、顔を出す職人もいる。かまぼこ製造の現場も変わった。「機械化された当初は、最初の下ぬりまで、機械でやって、中掛け、上塗りは、職人が手付けで仕上げていたが、徐々に、全工程、機械でできるようなった。


 昔は、1時間も臼でガラガラ擂っていたのが、いまや12、13分で100キロくらいのものができてしまうんだから。それもスイッチ1つで」。
 一人前のかまぼこ職人になるには、どのくらいの年月が必要ですかねという質問に対して。


 「職人なんていらねえよ。あげものだって、機械が全部、揚げていっちゃうし、昔は、釜の中に入れても、これで何℃くらいあるか職人じゃないとわからなかったもんだ。それが、今では、全部機械で温度管理できるんだから、職人なんていらないよ。パートのおばさんで十分だよ。そういう時代になっちゃったよ。だから儲からなくなっちゃったんだよ。ほんとだよ。いまは、全部、機械でできちゃうんだから。あと職人として腕が求められるのは、魚の配合くらいかな」と毒舌を呟きながらも、どこか寂しげだ。


 最後に「まだ小田原は恵まれているよ。正月があるから何とかやっていけている。年末時の売上げは、普段の惣菜と違って、高級品が売れるため、何とか利益が出る」。
 この道に入って58年、仕事を終えてビールを飲むときが1番の楽しみという杉山さんは76歳。まだまだ、かまぼこ製造は、他の者には任せられないと今日も現場に立つ。










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