連載 東蒲組合と私①

 築地市場をはじめ全国の中央市場で購読されている日刊食料新聞の元社長・山初省吾氏が、先ごろ、67歳の若さで死去した。つい最近まで、いろいろな取材先で、お会いしていただけに、突然の訃報に驚くとともに、寂しさを感じたが、同時に、気がつけば、いつの間にか、自分も人生の終焉に迫りつつあることを自覚させられる。

 自分の知っていること、体験したことを交えながら、東京のかまぼこ業界の歴史を一記者として記録にとどめておくことは、お世話になった業界への恩返しとともに自分の使命でもあると、この連載を始めることにした。

 記憶が曖昧な部分もあるが、薄れ行く記憶を呼び起こしながら、思いつくままに、脈絡もなく、書き記したいと思う。

 
 塩家理事長の思い出
 1日に5万人の買出し 築地王国
 
 東京のかまぼこ業界を見続けて、30年以上が経つ。事務局の金井房子さんの経歴に比べれば、その体験など取るに足らぬ薄っぺらな内容だが、業界の片隅に身を置いた1人として、その記憶を書き留めておきたいと思う。そんな私が、何の予備知識もなく、この業界に飛び込んだのは200海里直後の昭和52年頃のことだ。
 

 初めて、訪ねた築地場内は、巨大な航空母艦を思わせた。長靴を履いて、前掛けをし、タオルで鉢巻をした厳つい男連中が、ターレットと呼ばれる不思議な乗り物に、大きなマグロや魚を入れた木箱を積んで、我がもの顔に縦横無尽に走り回っていた。地下鉄日比谷線の築地駅から吐き出された買出し人は、竹かごを持ち、築地本願寺の前を通って、築地場外を抜け、海幸橋や勝どき門、市場正門などから続々と詰めかけていた。当時の買出し人は、1日5万人を超えた。仲卸売場は、「押すな押すな」のラッシュ状態だった。新聞記者の端くれとして、市場の片隅に立ったのは、築地が「王国」と呼ばれていた、そんな時代だった。
 

 ある日、編集長から命じられて出かけたのが、米国の原料視察を終えて帰国したばかりの若き日の故金子喬一氏が訪米報告する勉強会だった。命じられるままにカメラを抱えて向かった会場は、日が落ちかけた夕暮れ時の厚生会館に、かなりの出席者が詰めかけ、熱気に満ちたものだったが、ふんだんに原料に恵まれていた当時、出席者たちには、危機感の欠片もなく、海外の物珍しい帰国報告をただ興味深そうに耳を傾けていただけだったような印象がある。私自身、帰朝報告をすべて聞くこともなく、写真を撮り終えると中途で退席してしまった。
 

 東蒲組合といえば、すぐに思い出すのは、塩家好一理事長だ。全蒲の初代会長・小谷権六氏の後を継ぎ第2代全蒲会長を務め、かまぼこ業界の発展に多大な貢献をした人物だ。瞬間湯沸かし器の異名をもつように、頭に血が上ったら唾が人の顔にかかるのもかまわず、ゆでダコのような真っ赤な顔をして自論を展開する。

 いまの東蒲事務所で、組合長の姿を見ることはあまりないが、当時は、組合事務所に行くと、必ず、あの塩家理事長が、いつも苦虫を噛み潰したような顔で椅子に坐っていたのを思い出す。

 さぞや、事務員たちは、息苦しい時を過ごしていたことと想像するが、金井さんの証言によると「そうでもなかったわよ。塩家さんは、優しい方だった」とケラケラ笑っている。         (つづく) 東蒲新聞からの転載











 

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