ペリー来航の歓待料理に「はんぺん」

 ペリー来航の時の歓待メニューが東京大学に残されている。日本橋・浮世小路にあった懐石料亭の百川楼(ももかわろう)が1人100両(約500万円)の予算で請け負った(1人10両とする別の資料も存在する)。

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 その料理の中に、はんぺんとかまぼこも出ている。他に、鶴の肉とか珍しいものが盛り込まれていた。記録によると、はんぺんや大板かまぼこはメインディッシュだったとされる。百川楼では、よくはんぺんを提供していたが、その中には「湧き水はんぺん」なるメニューもあったそうだ。


 ペリー歓待の料理だが、現存している報告書によると「少しも美味しくない」との記録が残っている。その前に琉球王朝(沖縄)で食べた料理の方が美味しかったとの記述もある。


 残念な感想だが「やはり和食は、ペリー一行の口には合わなかったのだろう。引き算の料理である日本食が、アングロサクソン民族には理解できなかったのだろう。味も何もしなかったのだろう」と分析する関係者もいる。記録には、江戸の役人(通訳)が船の中で酒を飲み泥酔したとの記述も。



 関西のあんぺいの方が歴史は古く、その技法を活用して、サメが漁獲された江戸湾、相模湾、駿河湾とどんどん深くなっており、サメの産卵場所となっている。世界的に見ても、東京湾には様々な種類のサメが生息している。


 たまたま日本橋魚市場でサメが売買されていたときに、納屋番(江戸幕府の中にあった役職)の役人が、長崎を介してやってきた中国人を案内した折、サメの肉だけ食べて、ヒレを捨てているのを見て「これを中国に輸出してくれ」と申し出たのが、長崎俵ものの始まり。


 俵もの3品といわれる「なまこ」「あわび」「フカヒレ」を長崎の出島から輸出していた。幕府にすれば捨てていたものがお金になると、対価として中国から絹糸を貰っていた。幕府は、どんどんサメの漁獲を奨励し、余った肉を何とか利用したいということで、あんぺいの技法を取り入れたところ、身が柔らかいので、板に付けることが出来ず、お碗のフタで半分身をつけることから、いまの形になった。


 はんぺんは高級品で、一分銀の半分の値段だったことから、はんぺんの名称が生まれたとの説も。古い文献には、半片、お碗のフタに半分乗るところから来たとも。焼津の黒はんぺんも、同様の形状をしているため、もともとは関西から来たものと推測される。


 食文化は、総じて、上方から来たものが多い。醤油などもそうだが、うなぎなども、昔、関東ではぶつ切りで焼くだけだったが、関西からの影響を受けて、現在のように、裂いて食すようになったという。











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