連載③東蒲組合と私 未だ解消できない夏場対策の命題

 年々、日本の夏は暑くなる。もはや、日本列島は亜熱帯圏になってしまったのではないかと思うほどだ。先日、北海道の小樽に出かけたが、何と33℃。爽やかな北海道で滞在をとの目論見は淡くも消え去り、汗が吹き出す厳しい灼熱の3日間を過ごした。

 昔から東京のかまぼこ業者は、夏場は開店休業で、諦めムードが漂っていた。夏場の1、2ヵ月は商売を休み、のんびりとバカンスを楽しむ業者も少なくなかった。小田原の業者も儲けの多くを年末に稼ぎ出し、夏は、割りとのんびり過ごしていたと聞く。東京でも、通常月が売れに売れていた昭和30年、40年代の時分は、「かまぼこ商売はこんなもの」と、余裕のあるうちはよかったが、売り上げが下降線を辿るようになると、のんびり休んでもいられない。

 輸送体制の発達で、地方からの製品流入が増大するにつれ、商圏が脅かされることを肌で感じるようになって、やっと重い腰をあげた。東京製品の良さを知ってもらうと同時に、夏場でも、何とか商売ができないものかと知恵を絞って考え出したのが「東京かまぼこ祭り」だ。

 東蒲組合が編纂した「東京のかまぼこの歴史」の中には、次のように記されている。

 「祭り開催の提案は昭和44年4月の役員会で塩家理事長から行われ、全会一致で決定、早急に日程などについての詰めの検討が行われた結果、9月13、14、15日の3日間、全組合員の店頭を中心に開催されることになった。ポスター、宣伝用パンフレットの作成などが行われ、消費者にカラーテレビ、自転車などが当たるクイズも用意された。予算としては200万円が予定され、その手当てについては塩家理事長が行った。

 第1回東京かまぼこ祭りの評価は、その直後に行われたアンケートで知ることができる。大変よかったと答えた組合員は全体の26%、まずまずだったのが60%を超えた。初の試みに対して組合員の意欲はかなり盛り上がったといってよいだろう。店頭における組合員と消費者者との対話のなかで、地方製品と一味違った東京製品の特性が知らず知らずのうちに浸透していったことを大方の組合員は肌で感じた。しかし、一抹の危惧もないではなかった。地方の小都市と違って東京の場合はエリアが広すぎる。200数十人が同じ熱意でPRに対応することは不可能に近く、中には、この催しに全く関心を示さない人があったことはやむを得ないことだった。回を重ねるごとにマンネリ化が進み、一種の飽きが組合員の間に蔓延していった。
 
 組合員の多くは地域商店会に属して、毎月の特別セールなどの催しに参加しており、かなりの出費を強いられている。本来ならば、1組合員2、3万円の負担を組めば、派手な祭りが実行できたであろうが、それもままならない。

 祭りの後の反省会では、予算、実行方法などで常に多く意見が出たが、これといった決定的な案が出ず、祭りは年とともにその方式を手直ししながら、実質的には組合員のエネルギーを落としていった。中略。東京かまぼこ祭りは昭和54年の11回をもってその幕を閉じる。これ以上の継続は効果的に疑問があるとの意見が支配的となり、役員会決定でピリオドを打ったわけであるが、皮肉にもその直後に、消費宣伝の機運が全国レベルで台頭してきた」とある。

 私が、当時、広報担当理事をしていた故佐藤博氏と一緒に、都内のかまぼこ業者の店を取材して回ったのは、最後の2年間のことで、資料と照らし合わせてみると、昭和53年の10回と54年、最後となった11回目の東京かまぼこ祭りのときだったということになる。

 コンビニ店もなかったその頃は、商店街への買い物客の流れは、まだ、相当なものだったと記憶する。都内の店を2日間かけて各5、6店回ったように記憶するが、どこの店も買い物客でごった返し、祭りの反応を聞くのも、お客さんとの応対の合間を見図りながら行った。どの店でも、若い衆や職人が3、4人居て、忙しそうにさつま揚げを揚げていた。店頭には、組合がつくったポスターが貼られ、提灯とともに、かまぼこ祭りを盛り上げていた。買い物客で賑わう店頭で、かまぼこ店の主人の表情は明るく自信に満ちていた。あれから35年余…。夏場に、かまぼこが売れないという命題は解決していない。






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Tracked: 2013-07-03 16:33